ホネホネ先生の履歴書 3.結婚~

妻との出会い】

引田支店で勤務していたある日のこと、次長から「定期預金の書換のために来てくださいと電話があったから北灘に行く途中でこの家に寄ってくれ」と言われた。家の奥さんが出てきて世間話になり、聞けばそこの娘さんは私の高校の同級生である瀬戸内敏夫、菊池伸一、永峰栄子・永峰清子の従姉妹の家だった。おまけに私の母の里の従兄弟とは同級生だという。さらに永峰清子と細川健二の結婚写真を出してきてあれこれ話が出てきた。最後の「うちにも娘がいるけど貰ってはもらえんやろうなぁ」という言葉が気にかかっていた。「うちの娘のボーナスが出るから貯金してあげるわ」と言われ、ボーナス預金に釣られてシッポを振ってしまった。これが銀行員の悲しい性(さが)ではあるのだが。

私は結婚するならこの女性と思う人がいて、その人以外とは結婚はしないと心に決めていた。

しかし、その人はすでに人の妻となっていたし、年老いた両親が孫の顔を見たがっていることも気になっていたため、せっかくの御縁だから素直に受けてみるのも人生かもしれないと考えるうようになった。そして母の弟である叔父に頼んで縁談を進めてもらった。

途中、紆余曲折はあったが、なんとか結婚式を挙げ新婚旅行はヨーロッパへ。

実は、私としては新婚旅行は熱海か九州の温泉旅行と思っていたが、妻はアメリカ西海岸かオーストラリアじゃないと結婚しないという。その脅しに屈してしまって結局、ヨーロッパ4か国ツアーを申し込むことになったというわけだ。

ヨーロッパに行くからのは1週間じゃ物足りない、かといって結婚休暇は1週間しかもらえない。

毎年1週間強制的に休暇をとることになっている連続休暇と結婚休暇を合わせれば2週間の長期休暇になるが、なかなか言い出しにくいものだった。

そこで一計を案じ得意の悪知恵を働かせたのである。小学校の頃には無論成績は良かったが、特に『悪知恵』なら常に「5」がもらえるくらい最も得意な科目であった。

その年の11月はちょうど銀行の百周年の年にあたっていて百周年記念運動をやっていた。だから休暇を下さいとは言えない雰囲気であったが、わざと「秋に結婚したいと思いますので結婚休暇をください」と支店長に申し出たのである。

当然ながらなに、秋は百周年で忙しいから休暇は無理だぞ』と言われた。そこですかさず落胆した様子で「そうですか~、わかりました。秋は百周年ということであれば仕方がありません。結婚は来年に延ばします。その代わり1週間の連続休暇と1週間の結婚休暇を続けて2週間の休暇をください」と言ってみた。支店長は『うーん、わざわざ結婚を延ばすのであればしようがないなぁ、2週間の休暇を認めよう』と言ってくれた。(見事成功!)

こうして2週間の休暇をとることに成功し、ロンドン、パリ、ローマ、アテネの12日の旅に出ることになった。

これが人生で初めての海外旅行ということになったが、これも妻の要望がなければ国内旅行で終わっていただろうと思う。

初めての海外旅行、しかも行き先はヨーロッパ。ならばもっと予備知識を入れておけば良かったと後になって後悔したが、後悔とは後からするものではある。

新婚旅行の行先を皮切りにその後の人生において、私の人生に対する妻の影響は大きなものであったと思う。

今、骨法の世界で一世を風靡しているのも、きっかけは妻の「先生が辞めたらみんな困るからあんた、なんとかしなさい」のひとことであった。

ユニークな家に住んでいるのも私が描いた家の案をみた妻の「あんた普通やね!」「ほんまにセンスないね」という言葉に奮起してやけくそで絵を描いたことが発端である。
 

 【志度支店

二度目の転勤先は志度支店だった。ここで人生最大の苦難に遭遇することになる。また人生最大の快挙を成し遂げたのも志度支店である。

<喘息>

仕事の関係で国税局から電話があり、倉庫に入って古い伝票を調べることが何度かあった。

その度に、翌日の夜になって咳とみずばなが出て風邪のような症状になる。

内科医院で風邪薬を処方してもらったが一向に効果がない。そのことを医師に言うと「それではもっと強い薬を出しましょうか」といって処方された薬を飲むと、必ず夜中に呼吸が苦しくなる。いわゆる喘息の発作だ。

当時は、薬との因果関係には気づいていなかったし、風邪だとばかり思い込んでいたが、実は風邪ではなく薬の副作用による呼吸困難の発作だった。

そんなこととは知らず、風邪を治すためにいろんな努力をしたし、体力を養うためにと思ってゴルフの打ちっ放しにも行くようになった。

早く健康になろうと、薬は言われたとおり毎日欠かさず飲んだが、だんだん夜の発作がひどくなっていった。夜間に苦しくなってかかりつけの医院に電話したが「先生は飲みに行っていて留守です」という返事を聞いたあと、その場で倒れ込んでしまい、体が寒いことに気がついてはっとして意識を回復したということもあった。

呼吸困難は毎晩続いたが、最初のころは「風邪くらいに負けておれるか!」と気持は気丈であった。

息ができないから、気管に管を通して気道を確保したらいいかな?と考えたり、しかし柔らかい管でないと痛いかな?とか柔らかい管では潰れて空気が通らないかも知れないとか、馬鹿なことを考えたのを記憶している。

いっそのこと、首を切って気管を開いたら空気が吸えるじゃないか!ということまで考えた。

しかし、こんな状態が1か月も続くと、気弱な面が出てくる。

こんな苦しい生活がいつまで続くんだろう。もう、こんな人生はいやだ。死んでしまった方がよほど楽だと考えるようになった。

 

<死の決断と子どもたちの寝顔>

先の人生を考え「生きていても苦しいだけなら死のう」と決断した。最後に子どもたちの顔をみておこうと、二階に上がると、三歳の長女とゼロ歳の長男が妻の横でスヤスヤと眠っていた。子どもたちの寝顔をみると「今、ここで私が死んだらこの子たちはどうなるんだろう。今死ぬわけにはいかない。」思い直して何とか生きることを模索するよう考えが変わっていった。

 

<一冊の本>

夜中に2時間から3時間くらい、呼吸困難の状態が続き、コタツに座ってひたすら発作が収まるのを待つのだが、ただ待つだけでは時間の無駄だと思い、何かできないかと考えていると、ふと目にとまったのが一冊の本。

本の表題は『新銀行窓口の法務対策1800講』(下巻)だった。

その本の冒頭の部分が、銀行の行外派遣選考テストの出題範囲になっていたのは偶然なのか、それとも無意識のうちに選んだのかは定かではないが、喘息の発作が続く中、苦し紛れに冒頭の部分を4回~5回程度は読み直していたと思う。

法務対策1800講.jpg

 

その年はちょうど、銀行の資格で書記から副主事に昇格する年次に該当していた。昇格には支店長の推薦が必要であったが、当時の支店長は、私の喘息の様子をみて不満に思っており、「私はお前の仕事ぶりには満足していない。お前ならもっとやれるはずだ。副主事には推薦しないからな。1年待ったら昇格できるなどとは思うなよ」

こう宣告され、その年の昇格は見送りになった。「くそ~、この判定が間違いであったと必ず思い知らせてやる」そう思ったあの時の悔しさは今でもはっきり覚えている。

 

 

<行外派遣テスト>

喘息の発作で呼吸困難になり、時間の無駄だと考えて苦し紛れに読んだ1冊の本。

これが功を奏してか8月の行外派遣選考テストで運良く日本生産性本部への研修生として派遣されることになった。

当時の郊外派遣は日本生産性本部へ1名、中小企業大学へ1名、国際部関連では新潟の国際大学へ1名の派遣されることになっていた。

渋谷の日本生産性本部では1年間、銀行の仕事を離れて経営コンサルタントの勉強をし、資格をとって銀行での業務に役立てるという制度があったが、1年間の授業料は全額銀行負担、給料は全額もらえるし、おまけに日当までもらって勉強をさせてもらった。ここで経営に関する様々な知識と企業実習での実務経験を積んだことは、その後の私の銀行員生活を劇的に変化させることになった。

日本生産性本部への派遣が決まり、グループ研究のテーマを選定するにあたって、私はパソコンのプログラミングを学びたいと思った。そこで保育所から高校までの学友である水田博君に全くの素人でもBASICのプログラミングができるかどうかという点を相談してみた。一応彼は九州大学工学部を訳あって中退し、地元の電器店で店長をしていたからパソコンに関して参考意見を求めてみたわけだ。

彼の返事は「それは無理だから止めておけ。100人挑戦して2人か3人しか大成しない。素人では無理だ」という返事であった。

私は無理だと言われて黙って引き下がるはずがない。彼の言葉に刺激されて俄然やる気になってきた。

そこで天の邪鬼の私は日本生産性本部ではグループ研究でBASICのプログラミングを学ぶことにした。

その時の彼の返事が肯定的であれば私はパソコングループを辞めて他のグループを選んだかも知れない。しかし「難しいからやめておけ」と言われたら逆に『よーし、やってやる』と闘志を燃やすのが私の生来のあまのじゃく的な性格である。

そこで学んだBASICのプログラミング技術がその後の私の銀行員生活を大きく変えてくれたことに感謝している。
特に銀行に持って帰って一番役立ったのはこの時に勉強したBASICによるプログラミングだった。

パソコングループは3つあり、マシン語を扱う(上級)コース、BASICを扱う(中級)コース、簡易言語の(初級)コースがあった。
私はBASICコースを選択したが、それまでの経緯で今も記憶していることがある。
簡易言語が進んだ昨今の情勢下ではBASICを使うことはないが、論理的な思考の基本として今後の私の銀行員生活を大きく変えたし、そのノウハウは今現在も役立っている。
小学生の頃に「この子は理屈っぽい」と言われたが、それがどうした!理屈が言えない人間なんて生きる価値はない。 

 

 

 

<恩師図子憲顕さん>

実は、私が日本生産性本部の研修生として派遣されることになったのは、実に幸運というか奇跡が重なった結果であった。まず、郊外派遣者の選考基準で「副主事に昇格していること」という条件があった。しかし、私は支店長の推薦が得られず副主事には昇格していなかた。選考会議でも当然そのことが問題になったという。

これを覆して私を推薦してくださったのが当時の研修所長であった図子憲顕さんだった。

ある日、たまたま私が志度支店の営業室にいたら、支店長を訪ねて本部から図子さんが来られた。

その時の私は、なにか直感的にひらめくものがあった。「何かある!」そう思ってワクワクしたことを覚えている。

 

<突然の朗報>

その時の図子さんの来店目的は、私が日本生産性本部の研修生として選ばれたことを支店長に知らせるためだった。

私の直感は当たっていた。そして、副主事に昇格できなかったその本部の判断が間違いであったと思い知らせてやるという執念が実ったわけだ。

その後飲んでいた薬を辞めたら毎晩の発作が起きなくなり、結局は薬の副作用であったいうことがわかったが、人生の大事な時期に、ずいぶん回り道をすることになった。

しかし、逆の面から考えると、あの時の苦痛に耐えて苦し紛れに本を読んだことが、その後、日本生産性本部への派遣につながり私の人生を大きく変えることになった。

もし、あの時期に平穏無事な毎日を送っていたら、一生、平凡な普通の銀行員としての人生で終わっていたと思う。

『人間万事塞翁が馬』ということである。

 

<10年前の出来事>

この郊外派遣テストの選考には、実は伏線がある。

10年前の新入行員時代に、当時の支店長が私に口頭試問で試した時の一件が支店長の記憶に残っていたのに違いないと私は確信している。

1年間毎日1円ずつ貯金額を増やしていくと1年でいくらになるか?」という問題に、私が「台形の面積と同じです」と答え、算盤で計算した時の唖然としたような支店長の顔が今も目に浮かぶ。

実は台形の面積という発想は、さらに10年ほど前に小学生であった弟が言ったことなのだ。

 

<初めての東京>

東京は修学旅行以来、二度目であったが、修学旅行ではバスに酔って旅館で寝ていたので実質上、初めての東京であった。日本生産性本部の入学試験の昭和60年2月15日はちょうど新風営法の施行日だった。それまで不夜城と言われていた新宿歌舞伎町も夜の12時になると灯りが消えてひっそりしてしまう、そのちょうど初日であった。そんなことは試験とは関係がないがなぜか記憶に残っている。

 

<日本生産性本部研修生>
日本生産性本部へ派遣されてくるのは主に金融機関の職員が多く中でも国民金融公庫からの派遣者は一大勢力であった。
当時は中国政府から派遣された人が9名ほどいた。その中には旧ソ連と中国の共同宇宙開発プロジェクトのメンバーであった人もいて優秀な人材が集まっていた。
当時の中国の人たちの考えには「利益」の概念が存在せず、物を売って利益を得ることが理解できなかったようである。

日本の企業から派遣されている者も若くて優秀であった。

日本生産性本部では生産管理、財務管理、人事労務管理など多岐に亘る講義がありその都度試験もあった。

ここで学んだことは大きな収穫であり銀行に帰ってからも、また銀行を退職した後も大いに役立ったと今でも感謝している。

 

<青森企業実習>

日本生産性本部での初めての企業実習は青森県浪岡町の紳士服の縫製工場だった。最年長の私は班長であったが、宿泊していた旅館の部屋が足りず、布団部屋を改造した部屋に泊まることになった。部屋に入ったとたんに異様なカビの匂いがして、やがて鼻水がでて咳がでてきた。次第に咳き込むようになり、ヒューんと喉が鳴って呼吸が苦しくなる。喘息の発作が出てしまった。もう治ったと思っていたから気管支拡張剤などの常備薬も持ち合わせていない。あまりにも苦しい様子を見かねて、夜間に同僚の西田義典さんが病院まで連れて行ってくれたが病院の玄関先で吐いてしまったことを覚えている。しかし静脈注射を打ってもらうと嘘のように元気に生き返った。

企業実習ではみんな張り切って徹夜で改善策を出して討論をするなど実に有意義な実習であった。

 

その後も長野県安曇野のスーパー、三重県のヒューム管製造工場、群馬県の曽我製粉など実に有意義な体験をさせてもらった。

 

<九条支店転勤>

日本生産性本部の研修を終えたのが昭和61年3月。その前の1月時点で大阪の九条支店への転勤辞令が出ていた。

志度の社宅にいた家族は早めに芦屋の社宅に引っ越しして、私は3月の卒業を待って九条支店に赴任した。

ずっと後になって妻の知人から聞いたことだが、妻にとって芦屋での生活は人生最高のものであったようだ。

芦屋からは高速道路を使えば、奈良、京都はもちろん、信州も近い。南紀、山陰へも簡単に行ける状況であった。

大阪で暮らした4年余りの間にあちこち家族旅行に出かけたことは私にとても楽しい想い出となっている。

 

<評価してくれた支店長>

日本生産性本部での1年研修を終えた私は、東京での勤務を希望していた。そして海外勤務の夢もあった。

紀伊国屋書店で英会話学校の勧誘の女性に声を掛けられ「体験レッスンを受けてみませんか」と言われ、無料ならいいか!と体験レッスンを受けることにした。英会話くらい簡単だと思っていたが、実際に話そうと思っても言葉が出ない。外人講師との挨拶の後、「I 'm a bank clark」と言っただけであとの会話が続かない。赤恥をかいたことで、奮起して本気で英会話を勉強する気になり大阪梅田にある英会話学校「NCB」で英会話の勉強をした。英会話教室の契約期間は1年半。費用は40万円ほどかかったが、今となっては安いものだ。

また、1年後にPAXという英会話学校が5万円で6か月間自由に好きなだけ予約がとれるという格安講座を始めたの知って、これも申し込んだ。固定料金だから予約をとらないと損をすると考え、時間の許す限り英会話学校に通った。これで英会話の自信がついたのだと思う。

 

日本生産性本部で学んだBasicという基礎があるから九条支店では私は簡易言語でのプログラミングはお手の物だった。QCサークルの実績発表でも、地区の大会で優勝するなど実績を挙げていたから支店長は高く評価してくれていた。

そんな折、支店長との面接があり、将来の転勤希望などを聞いてくれた。支店長は「第三次オンラインシステムの開発が始まるのだが、当行には論理的な思考のできる人材が少ない」と嘆いた。私は「あー、大変ですね」と他人事のように受け止めていたが、実は支店長の意図は私にシステム開発をさせたかったのだ。それならそうとはっきり言ってくれたら渋々でも従ったと思うが、はっきり言ってくれなかった方が私にとってはありがたかった。「君の希望はスペシャリストなのかゼネラリストなのか」そう聞かれて私は迷わず「ゼネラリストです」と答えた。スペシャリストなんて使い捨てされて終わりじゃないか!私はそう考えていたのだ。それでこの件については落着、それ以上の言及はなかった。

その後、支店長は第三次オンラインシステムの開発責任者として本部に異動になり、のちに頭取、会長を務められた人望の厚い方であった。

 

<六甲山荘事件>

私の銀行員生活の中で、最も私の性格を表面に出すことになったのが、この「六甲山荘事件」である。

当時、取引先の会社の所有していた六甲山の保養所を借りて九条支店のメンバーが泊まりがけのバーベキューパーティーを開いたことがあった。このパーティーは2年連続で夏に行われたのであるが、1年目に思わぬ事故があった。

東條次長が露天風呂の岩に足をぶつけて静脈が裂け、出血が止まらず夜間に救急車で病院に運ばれるという事件があった。

露天風呂の岩に足をぶつけたのは東條次長が風呂に入るのをためらっていた時に田井支店長代理が冗談で後ろから突き飛ばしたため、勢い余って岩に足をぶつけて静脈が裂けたというのが真相である。

この事件があったため、2年目は東條次長は夜の参加は自粛し、翌日の朝から参加することになっていた。

また藤田次長は得意先とのゴルフで帰りが遅くなるため、翌朝からの参加とすることを幹事に伝えて了解をとっていた。

そんな事情の中、起こったのが関係者の中では語り草にもなった「六甲山荘事件」である。

夕食の時間になり酒が回ると、藤井支店長が酔っ払って愚痴をこぼし始めた。

「支店の行事であるのに二人の次長が揃って欠席とは何事だ!」

「二人とも俺が次長にしてやったのに、休むとはけしからん」

「支店長の俺が来ているのに両次長が来ていないのは、つまらん」

 

このようなことをグダグダと愚痴り始めると、酒の影響もあって収拾がつかなくなってしまった。

「今から次長の家に電話して、すぐに来るように言え!」と幹事の三宅雅彦君に命じたが、三宅もなかなかの役者で、電話しているふりをして一人芝居をして、「まだ帰っていないようです」と、その場を取り繕っていた。(彼はなかなか気が利く子であった)

何度も『もう一回電話をかけてみろ』と言われて幹事が困惑していたが、ついに支店長が俺が電話すると言って二人の次長の家に電話をかけ、しばらく経って両次長がやってきた。

支店長の愚痴は延々と続いたが、とうとう支店長がみんなの考えを聞くと言って、一人ずつ詰問を始めた。

なぜなのかはわからないが、最初に指名されたのが私の左隣に座っていた誰かであった。

『〇〇、お前はどう思う』 

指名された者は「・・・」。 黙りこんで何も言えない。

その左隣の『〇〇、お前はどう思う』

 (支店長はなぜか左回りに指名していった。まるで私を避けるように) 

同様に「・・・・」。 シーン。何も言えない。

その隣の『〇〇、お前はどう思う』 

同様に「・・・・」 だんまり、何も言えない。

酒で酔っ払って呂律も回らなくなった支店長に対して、答える勇気のある者はいなかった。

その隣、『〇〇、お前はどう思う』 

同様に「・・・・」 うつむいて、何も言えない。

酔っぱらって呂律の回らない支店長の声を聞きながら自分の順番を待っていたのだが、腹が立って仕方のない私は、どう言おうかとずっと考えていた。

言いたいことを思い切り言って、最悪の場合は銀行を辞めることになるかもしれないという想いが脳裏をよぎったのを覚えている。

(それでもいいか、田舎に帰って田んぼをしながら妻と子どもを養うことくらいはできるだろう・・・)こんなことを考えながら何を言うか心に決めていた。

男子行員はほぼ全員参加していたと思うが、誰も何も言わないまま、指名が一周して最後の私の番になった。

『丸山、お前はどう思う』 

その時まではらわたが煮えくり返る思いであった私が言ったのは・・・

「支店長、辞表を書きなさい。あなたには支店長の資格はない。自分で辞表が書けないなら私が書いてやるから署名だけしなさい。」

この言葉に支店長は黙ってしまった。

そして、私のこの一言で、一気に場が和んで お開きになり、一同解散。支店長は布団の中でぶつぶつ文句を言いながら眠りにつき、途中で「寒い、寒い」と言い出したが、そんなことは知らんぷり。放っておいたら静かになった。

午後九時ごろから始まった支店長の愚痴を夜中の1時か2時まで聞かされたメンバーにとって、やっとのことで解放されたというのが正直な感想だと思う。

今から思えば、我ながら無謀な人間であったとは思うが、幼少の頃から正義感は人一倍強かった。

また喧嘩っ早い性格は父親、そして祖父譲りなんだと思う。 

父は口で言うより手の方が早い、黙っていてビンタが飛んできていた。

私は暴力ではなく、理屈で言い負かす方であった。部下や友人とは喧嘩はしなかったが理不尽な上司は許せなかったから徹底的に歯向かったものだ。この性格がなかったら、もっと上手に世渡りができていたとは思う。

 

<総合企画部への異動>

次は東京勤務だと夢見ていた私は、意に反して平成2年8月本部の総合企画部へ転勤になった。総合企画部といえば銀行の経営の中枢を担う部署である。そこではALMやリスク管理統括の仕事を担当したが銀行全体を見渡せるという意味では面白い部署ではあった。

当時の住まいは紫雲町の一戸建ての元支店長社宅であった。家の前には庭がありまた中庭もあり、雨洩り隙間風付きの古風な建物であった。朝早くから紫雲中学のテニス部の生徒の練習の声と鬼コーチの罵声が聞こえていたのが記憶に残っている。

紫雲町で1年ほど暮らしたが、偶然に通りかかった屋島で新しいマンションのモデルルームを見学し、衝動買いで牟礼のエメラルドマンションを買うことになった。そこでは15年ほど暮らすことになり、西支店への転勤、徳島支店への単身赴任、システム部、資産管理部、二度目の志度支店勤務、審査部、事務管理部、与信企画部、検査部勤務もこのマンションが生活の拠点になった。

 

 

 

 

 

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